世界観について

圧倒的に生産性の高い人(サイエンティスト)の研究スタイル - ニューロサイエンスとマーケティングの間 - Between Neuroscience and Marketing
土曜に読んで,なんかすごいな,これはブクマ三桁かな,なんて思っていたら,桁をひとつ間違えていたらしい。このエントリ,よくあるライフハック(笑)と見せかけて,冒頭に絶望的な文章をさりげなく書き残してあるのがとても気に入った。

自分の考える世界観があり

これで99.9%の人間はアウト。自分もアウト。9をもうひとつ加えてもいいかもしれない。しかもこの世界観というのがまた難しい。たとえば水にありがとうと話しかけたら綺麗な結晶ができるという類の世界観ではダメなのだ。困ったことに彼らは彼らでしっかりした論理思考能力や問題解決能力を持っていたりするから話がこじれるのだ。いやその世界の話は置いておいて,論理学的には矛盾から全てが導けるのと同様に,ある種の世界観=初期設定は突拍子もない結論に辿り着くことがある。その筋書きが面白ければ,人はそれを良質なSFと呼ぶ。そして99.9(9)%の人間が持っている世界観は,その後の検証に耐えうる一貫性と柔軟性を備えていないという点で水からの伝言と大同小異だ。
それでは何が必要なのかというと,世界観の涵養だ。つまり生きるということだ。絶え間なく続く世界との相互作用,その反射を蓄積しながら,一瞬ごとに新しいモードへと入っていくことだ。フィヒテが言ったような気がするが,一切の知は,己を形成すると同時に己を知るものだ。だから自分はアホみたいに論文読んで,アホみたいに遊んで,自分の中に世界の欠片でもぽこっと紛れ込んでこないものかと仕込みを続けているのだけれど,なかなか難しいものだ。内部の内部は外部であるというパラーデの直感は恐らく認知科学的にも正しい。人間がその内部に秘めた世界は,エキソサイトーシスを待つ化学物質と同様に,薄い意識の膜に包まれている。それはまさしくgiftedなものだ。
だから,問題解決の狭い方法論だけ身につけても無駄なのだ。何故なら,そこには世界観への再帰性が欠けているからだ。本来そのような方法論は世界観を涵養するプロセスの一部であり,その結果が再帰的に相互作用することで,自己と世界と自己の中の世界が遷移していくのだ。そして何とも恐ろしいことに,この真に科学的ともいえる思考様式を,ごく一部の人々はどういうわけか幼稚園に通い始める頃までに身につけてしまう。彼らがその内部に秘めた外部を提示することを,自分たちは天才と表現する。そんな彼らと勝負しなければいけないのはとても骨が折れる。
電波を飛ばしすぎたせいか頭が痛いので寝ることにする。