タイムカプセルが出てきた気分

大学の研究室に忍び込んでパソコンのデータをゴッソリ抜き出してきたんだが,その中から薬学部進学時に提出したらしいレポートが出てきた。2006年2月だから学部2年の終わり,7年前か。あちこちでうまいこと言おうと頑張ってる感が痛々しくて良いですね。

ロラン・バルトは音楽家に関して述べた文中で、アマチュアを「技術的不完全さよりもスタイルによって定義される役割」だと位置付けているが、ここから敷衍されうるのは「プロとは『スタイルよりも技術的完全さによって定義される役割』である」というテーゼであろう。そしてこのプロフェッショナルという一つの生き方こそが、私が薬学部という環境に身を置く上で最も求めるものだ。では、何故薬学なのか。それは私が求めるプロフェッショナルのイメージが、薬学の一学問分野としての領域展開の状況と一致しているからだ。

(中略)

私が薬学という学問領域に感じている魅力は、誤解を恐れずに言えば錬金術に対するそれと似たような性格のものだろう。古代ギリシャ時代に生まれた万物の有り様を説明しようとする理論を嚆矢として、宗教学から合成化学まで幅広い分野の学問を全て「金(或いは賢者の石、つまり完全性)を生み出す」という目的のために行使する錬金術のスタイルは、現在において有機化学や生化学、統計学や経済学などを動員して「薬」というアイテムの発展に努める薬学の様態と相通ずるものがないだろうか。

スピノザが毒に関して言明した主張を踏まえるならば、薬とは「常に変様を見せている身体の構成関係との合一によって、私たちの力能を回復・増大させる要素」だと言えるだろう。錬金術が最終的に真の自然科学の誕生に結びついたように、薬学分野の著しい発展は薬(創薬・製薬・育薬・・・)を中核とした「薬学」という知的ムーブメントそのものが社会全体に対する「薬」として作用し、21世紀これからの社会を新たな次元へと導いていくに違いない。

(中略)

自らの専門分野に依拠した技術的完全さによってプロフェッショナリズムを担保しつつ、それに付随するスタイルによって活躍の場を広げていく。薬学はその学問的性格上、こうした人材を数多く輩出し得る領域だと私は考えている。そのような環境に身を置くことで、私自身も「薬」を何らかの形でバックグラウンドとした技術的完全さを獲得しつつ、確固たるスタイルを築くことで、薬学という学問領域同様多岐に渡る可能性を開花させられるような人間を指向していきたい。

この頃はまだコンママル派じゃなくてテンマル派だったらしい。最後にコッソリ「多岐に渡る可能性」とか言って器用貧乏宣言してるのを俺は見逃さないぞ。安心しろ,7年たっても器用貧乏だから。