オリンピックなど

そういえばオリンピックについて何も書いてないなと思ったものの,どうにも話がまとまらなくて諦めていたところに格好な燃料がやってきた。
http://mainichi.jp/select/opinion/editorial/news/20080830ddm005070004000c.html
現代に至る近代オリンピックの理念を作り出したのは,二つの擬古だ。一つはクーベルタンによるもの,もう一つは平たく言えばヒトラーによるもの。理想化された古代ギリシャに対する擬古思想が,一つは教育という装いを,もう一つは国家という装いをもって具現化されたもの,それが近代オリンピックなのだ。

思い返してもらいたい。近代五輪の創始者クーベルタン男爵が古代ギリシャで1200年近くも続いた古代オリンピックの復活を提唱したのは「大会期間中、すべての戦いを停止する」とした「五輪停戦」の思想を生かそうとしたことにある。

クーベルタンはオリンピックを第一義的に「平和の祭典」だとは考えていなかったはずだ。彼は教育者であり,彼がオリンピックの復興に尽力したのも,それが青少年の教育に有益であるからという理由だった。彼はイギリスのパブリックスクールにおける教育から多大な影響を受けており,スポーツを通じて切磋琢磨しながら自己陶冶するという姿勢に"A sound mind in a sound body"*1的な理想を見出したようだ。そして,それは彼が古代オリンピックに見出したものでもあった。
また,当時のフランスにおける身体教育は,普仏戦争の敗北を受けて軍事教練化が進んでおり,それに対する反動形成として合理的な身体教育を求める運動が起こっていたという背景もあった。一応書いておくと,パブリックスクールは私立の中等教育学校だ。言うまでもなく,彼らにとって一流の子弟教育は私的な領域に帰せられるものだ。
一方で,クーベルタンはオリンピックの復興にあたって,国家という枠組を絶対視していなかった。それは第1回アテネオリンピックにおいて,他国選手とのペアでテニスダブルスに出場できたことが端的に示している。
したがって,クーベルタン自身がどこまで志向していたか明確ではないが,初期の近代オリンピックが都市興行の性格を持っていたのは半ば必然だろう。そもそも,各回のオリンピックが開催都市の名を冠していることがその証拠だと言える。彼にとっては,オリンピックにおける国家同士の競争は,パブリックスクール同士のそれ,例えば対抗戦におけるそれとよく似たもの,それ以上でもそれ以下でもなかったのではないか。
そもそも,「大会期間中,すべての戦いを停止する」というルール自体が,第一義的に平和を希求するものではなかった。それは大会に向かう観客と選手を安全に輸送するためのルールだったし,選手すなわち戦士を大会に拠出するためのルールだった。しかもそれは大会の重要性を理解し,共有している諸国間でのみ有効なものだった。それは彼らの神々に捧げる祭典だったからだ。さらに言ってしまえば,この停戦は「街にサーカスが来たから仕事を休もう」という程度のものだったのではないか。ともあれ,一部の国々が勝手に主張して,勝手に押しつけるものではないだろう。
さて,もう一つの擬古について。個人の自己陶冶が結実する場,都市興行としての大会を,国家の威信を誇示する場,代理戦争としての大会にしたのはこの擬古であり,ヒトラーであり,ナチズムだ。さらに悪いことに,現代に至るオリンピックはかなりの部分を1936年ベルリンオリンピックから継承してしまっている。聖火リレーはその最たる例だ。だから,「聖火リレーの最終走者をダライ・ラマに」という発言は,この上なくグロテスクなものだ。
リーフェンシュタールが前衛的な撮影技術を駆使して表現したもの,それは仮想的な古代ギリシャの理想性に仮託した,多神教的な神々の戯れであり,人間の原始的な祝祭性であり,田中英光の言葉を借りれば「古代ギリシャ,ロオマの巨匠達が発見した,人間の文字通り具体的な,観念に憑かれぬという意味での美しさ」(『オリンポスの果実』)だった。
それは確かに,単なる擬古を超えて,古代オリンピックの本質を捉えたもののように思える。これは個人的な意見だが,古代オリンピックは,人間の美しさを鑑賞し,神々に捧げる場であり,また恐らく,ホモソーシャルな視線を秘めたものだっただろう。しかし,その美しさがナチズムのプロパガンダとして機能した時点で,近代オリンピックは20世紀の精神病理に対する鏡像となってしまった。

五輪開幕日に勃発した戦闘行為に抗議すらできないIOCなら五輪を「平和運動」と位置づける資格もない。五輪は単なる金もうけのスポーツ大会として看板を掛け替えてはどうか。

これは皮肉のつもりで書いたのだろうが,むしろ原理主義的な正論になっているところが興味深い。1984ロサンゼルスオリンピック以降の過剰ともいえる商業化は,近代オリンピックが依拠してしまった国家という装いをさらに覆い隠そうとしている点で,逆説的に評価できる。金を払ってウサイン・ボルトの早さ,強さ,美しさを鑑賞し,楽しみ,彼と彼を生んだ環境に思いをはせ,敬意を払う…これでいいのだ。もっとも今回の北京オリンピックでは開催国に好き勝手なことをさせてしまったが,あれも世界経済のクラッシュを防ぐという点では意義のあることだったのかもしれない。
ここまで長々と書いてきたが,この記事で一番げんなりするのは「善意は受容されて然るべきだ」という気持ち悪さだ。五輪だから停戦を訴えろ,訴えて通じなければ…こう言うのだ,「何故善意が受容されないのか」と。善意は主張されるべきだし,また受容されるべきだという幼稚な理想論が気持ち悪いのだ。その気持ち悪さは,最近起こったこの事件についても感じた。
例えばこれ。

困っている外国の人々を少しでも救いたいという善意が、憎悪と暴力で拒否される状況になってしまったのは悲しい。一人の人間として全力を尽くしているのに、国籍ゆえに受け入れようとしないなら理不尽であり納得がいかない。

アフガン拉致 善意を阻んだ暴力を憎む

例えばこれ。

そんな伊藤さんの命を奪った犯行に、心の底から怒りを覚える。紛争地の人道援助NGOは、どの武装勢力からも中立的な立場を取ろうとする。なのに、なぜ襲われたのだろうか。

アフガン拉致―青年の志を無にしない

「理不尽であり納得がいかない」「なのに,なぜ襲われたのだろうか」が出発点になるべきなのだ。自己の善意が受容されず,他者の善意を受容できず,それでも生きていかなければならなくて,そこから考え始めなければならないのに,そこで思考停止してしまっている。仮にも一新聞社の名前を背負って捻り出した主張がこれなんだから,まったくげんなりだ。
あれ,オリンピックの話題だったはずが,気がつけば伊藤さんだよ…まぁいいや。自分はベタにオリンピックが好きなので,ベタに観戦して,ベタに感動しましたとさ。おしまい。

*1:この諺はユウェナリスの原義を超えて多様な解釈がされているが,ここではベタに普及している「健全な精神は健全な肉体に宿る」という意味で書いた