ダイスケが抑える神経活動

バイオ基礎研究分野で大きな話が続いているけれど,今回はこういう話。

ノーベル生理学・医学賞を受賞した米マサチューセッツ工科大の利根川進教授が、脳の神経回路のスイッチを自在に「オン」「オフ」する遺伝子操作技術を世界で初めて開発することに成功した。

http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20080125-OYT1T00003.htm

複雑な脳のネットワークの働きを解明するために、マウスの特定の神経回路を一時的に遮断する技術を、理化学研究所・米マサチューセッツ工科大学脳科学センターの利根川進センター長らが開発した。

http://www.asahi.com/science/update/0125/TKY200801250033.html

二つ引用したのは,読み比べると面白いから,というだけの理由だ。まぁ簡単に云っておくと,朝日の中の人は分かって書いてるのかね,ということ。
この"DICE-K"というファンキーなネーミングは,"doxycycline-inhibited circuit exocytosis-knock down"の略らしい。同じ神経科学分野でも,先日の"Brainbow"*1よりは高等なセンスだと云えるだろう。いや,よく思いついたものだ。
このダイスケは,いわば精巧な分子生物学ピタゴラスイッチだ。Cre-LoxP systemとTet off systemという二つの遺伝子発現制御システムを組み合わせて,ある場所の神経細胞に,ある条件においてのみ,テタヌストキシンという神経毒を作らせることができる。場所を決めるのが前者のCre-LoxP,条件を決めるのが後者のTet offであり,最後のスイッチになっているのがダイスケのD,doxycyclineという抗生物質だ。この場合はマウスの飲み水にdoxycyclineを入れるか入れないかで,テタヌストキシンの発現をコントロールしている。テタヌストキシンはVAMP2というタンパク質に特異的な毒素で,このタンパク質はシナプス前終末の神経物質開口放出に関与している。
少し難しくなるが,この一連の流れをまとめると,まず海馬CA3においてKA1 promoterの下流にあるCreが発現し,それがαCaMKII promoterの下流にあるLoxPサイトを切除することでtTAが発現する。そこで飲み水からdoxycyclineを除去するとTet operatorの下流にあるテタヌストキシンが発現し,それがVAMP2を阻害することで神経細胞の活動が抑制される…ピターゴラースイッチ!(違)このようなマウスは,三種のトランスジェニックマウスをかけあわせることで作られる。最先端の分子生物学が生み出したトリプルトランスジェニックマウスなのだ。
ここまで読んでいただけたなら,冒頭で「朝日の…」と書いた理由も分かっていただけると思う。

利根川さんらはマウスの遺伝子を操作して、特定の神経回路で毒素を働かせ、回路を遮断することに成功した。薬をえさに混ぜて、回路を回復させることもできる。各回路のスイッチを自在にオン・オフすることで、その働きを調べられる。

それは確かにそうなんだけど…これだとえさに混ぜられた薬が,あたかも毒素に対する治療効果を持っているようなニュアンスに取られかねない,と考えてしまうのは自分だけだろうか?短い記事の中で紹介するのは困難を極めるのだろうが,もう少し書きようがあるだろう。
閑話休題。Cre-LoxPとTet offを組み合わせて脳の神経活動を調べる方法自体は前世紀末に考案されたもので,これを利用してNR1というNMDA受容体のサブユニットを海馬CA1に過剰発現させ,記憶・学習における海馬のはたらきを調べた研究(Shimizu et al., Science, 2000)などがある。NMDA受容体は,記憶・学習や経験依存的回路形成機構の基本過程であると考えられている「シナプス可塑性」の一つ,LTP(長期増強)において重要なはたらきをするものだ。それを増やしたり減らしたりすることで,マウスが賢くなったりバカになったりする。
ダイスケが新しいのは,そのようにシナプス可塑性を変化させるのではなく,神経伝達そのものを抑制してしまうところ。さらに,Creの上流に位置するプロモーターを選んでやれば,細胞腫に応じて任意の場所の神経活動を抑制することができる。それを利用して海馬の一部のみを抑制し,そこが記憶・学習においてどのようなはたらきをしているか調べました,というのが今回の論文だ。
海馬への主要な入力は二種類ある。一つは"...→嗅内野皮質第II層→DG(歯状回)→CA3→CA1→..."という回路で,シナプスを3つ*2中継していることから"trisynaptic passway"と呼ばれる。もう一つは"...嗅内野皮質第III層→CA1→..."という回路で,こちらはシナプスを1つ中継していることから"monosynaptic passway"と呼ばれる。ダイスケを利用して前者の回路を抑制すると,新規環境での迅速な学習ができなくなることが分かった…らしいんだけど,この先は自分が周辺知識に乏しいので触れないでおこう。

*1:三種の蛍光タンパク質とCre-LoxP systemを活用して,神経細胞を美しくカラフルに染め分ける技術。云うまでもなくbrain+rainbow

*2:DGやCA3でのreccurent networkも存在するのだけれど,最短で3つ