(500)日のサマー

バイトを終えてから有楽町まで観に行ってきた。『パルナッソス博士の鏡』でも『サロゲート』でも良かったのだけれど,どちらも上映時間に間に合わなかったので…。

建築家になる夢を諦めきれないままグリーティングカードの制作会社ではたらく主人公トム(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)が,秘書としてやってきたサマー(ズーイー・デシャネル)に運命を感じちゃって…というおはなし。ただ,冒頭のナレーションにもあるように,"This is not a love story, this is a story about love"なのだ。
いやあ,とても面白かった。まず,徹底的にトムの視点から描写しているところ。だから,サマーが何を考えているのかまったく分からないのだ。自分がトムに否応なく感情移入しながら観ていたことを差し引いてもやっぱり分からないから,おそらくちゃんとそういう物語の構造になっているのだろう(と願いたい)。たとえば別れた原因にしたって,結局のところサマーの発言から類推するしかないわけで,観客が特権的な位置にいるわけでもなく,あくまでトムと同じ次元で物語を追っているのだ。だからこそ逆に,トムがサマーに「彼氏いたの?」って尋ねるところや,初めてサマーの部屋に招かれたところでぐいぐい引き込まれてしまう。
極めつけは,久しぶりに再会した流れでもう一度会うことになる場面。場面が二分割されて,左側に妄想が,右側に現実が同時に映し出されるのだけれど,ここが,もう,ね…目を背けそうになった。ここで日本語字幕はとても優しい作りになっていて,最初に「期待」「現実」と控えめに表示するだけなのだけれど,本編では最初から最後まで"Expectation"と"Reality"の二語が出っぱなしで,分かった分かった,もう分かった,よく分かったからそれ隠してくれよ…と言いたくなった。分かるよ分かる,そういう妄想するよな。そんでもって,何かあるときはそういう期待を全部押し殺してから向き合わないと,ああいうことになるんだよな。トムくん,可哀相にね。
そんなトムくん(いつの間にかくん付け)が一番可哀相なのは,やっぱり488日目のアレだろう。あそこで彼が口にはしなかったけれど,おそらくどうやっても表現できなかっただろうけれど,抱えていた感情のカタマリみたいなものが,自分にはとてもよく分かる…気がする。つまり,自分の苦しみや悲しみや煩悶や懊悩やその他諸々をお前のステップアップストーリーの文脈に回収するんじゃねーよってことだよな。ある朝目が覚めて好きじゃなくなってるのが怖いから好きになれないとか抜かして"I like (≠love) you"としか言わなかった女にダンナとの「運命」の出会いを語られた挙げ句「貴方が正しかったわ」って手を握られた日にゃー,自分なら血管壁がどれだけ分厚くても耐えられる自信がないね。敢えて言おう,bitchだと!
もちろん,トムになりきってサマーの一挙手一投足にハラハラさせられるだけじゃなく,PG-12に相応しいブラックなネタもたくさん仕込まれていて,あちこちで楽しめた。公園でぴーなすぴーなす*1と絶叫しあうところとか。ヴァレンタインデー*2グリーティングカードを作っているところで,サマーにフラれて茫然自失のトムが考え出したのが"The rose is red, the violtet is blue, fxxk you whore!"だったりね。元ネタはマザー・グースだけど,まるで国語の時間に小学生が作った替え歌だよな。
それから,タイトルについて。原題は"(500) days of Summer"なわけで,直訳すれば『サマーの(500)日』になるはずなのだけれど,何故だかひっくり返ってしまっている邦題も,これはこれで悪くないんじゃないか…と,ラストシーンにあたる500日目を観ながら思った。この作品はあくまでトム視点であり,サマーは結局のところ単なるオブジェクトなので,『サマーの…』では何だか落ち着かない。そして,500日目にアレが起こるから,トムにとってサマーは(500)日の存在なわけで,そういう意味では(500)日のサマーなのだ。それにしても,500日目のアレ…488日目でアレなんだから,良かったじゃん。
色々書きたいことはあるのだけれど,どれもこれもネタバレど真ん中になってしまうから,このくらいにしておこうか…最後に,もう少し綺麗に文章をまとめておこう。この作品のキーワードは「偶然」と「運命」(≠「必然」)だと思う。おそらく偶然と運命は構造と機能の関係と等価で,構造に対する機能が観測者による解釈であるのと同じように,偶然の連鎖を生きるヒトが世界に対して与える解釈が運命なのだ。500日目に至ってトムくんは,運命性の全否定とそれにつづくニヒリスティックな局面を経由して,偶然を偶然それ自体として受容できるようになるのであった。
この主題はとても重要だ。昨今のラブストーリーが欧米にあっては運命性の止揚によって偶然性(≒個々の相違)を克服する物語(パッと思い付いた限りでは『ホリデイ』とか『あなたは私の婿になる』とか,その他たくさん)であり,一方の日本にあっては運命性の追求によって偶然性(≒事故や病気)を超越する物語(こちらも挙げればキリがない)であったのに対して,一線を画しているからだ。『それでも恋するバルセロナ』のラストシーンは宿命に対する諦観だと以前書いたけれど,そのニヒリスティックな受容をさらに一皮剥いちゃったのが,この『(500)日のサマー』なのだ。いやあ,トムくん,悟っちゃってるねえ。

*1:さすがにつづりは書けません

*2:奇しくも観たのがまさにその日だった