最近観た映画

見た順番に従って,初見か否かを問わず。中途半端なネタバレ満載だよ。

宿題をこなす程度の心構えで見始めたのだけれど,案外に良かった。笑い泣きというか泣き笑いというか,そういうあれこれを全部動員して大団円,というのが三谷幸喜は本当に上手だと思う。毒気が無くて誰も傷つかない笑い,というのもたまには良いものだ。中井貴一天海祐希(そして市川昆監督!),谷原章介鈴木京香寺脇康文香取慎吾唐沢寿明などなど,カメオの数珠繋ぎみたいな豪華チョイ役陣でお腹いっぱい。
ウォッチメン スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

ウォッチメン スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

原作は未読なのだけれど,どういうわけかドクター・マンハッタンという登場人物だけは知っていた。核実験に巻き込まれた物理学者が超人的な力を手に入れてしまって,原子を自在に操ったり未来を予知したり,冷戦のパワーバランスをメチャクチャにしてしまう神様みたいな存在なのだ。おそらく彼がベトナム戦争に参加したおかげ(?)でアメリカが勝利していて,ニクソンが修正第22条をひっくり返して三選していて,4回目だか5回目だかの大統領選挙を迎えている1985年が本作の舞台になっている。
登場人物もぶっ飛んでいて,平和のための暴力という矛盾を徹底的にパロディ化したコメディアン(冒頭で死んじゃうけれど),ウォッチメンとしての活動が規制されてからもほとんどニーチェ的に自身の正義を遂行しつづけるロールシャッハ(彼のマスクはまさしく善悪二元論だ),老いたスーパーマンバットマンのダサいところを全部混ぜ合わせたようなダメ中年男のナイトオウル二世(ヒーローをやると途端に色々な意味で元気になる),アレキサンダー大王やラムセス二世に学んだらしい全身是帝王学のオジマンディアス(世界で一番頭が良いらしい),そして人間に飽きちゃったリアル超人のドクター・マンハッタン,あとその彼女。
ニーチェ的,と書いたのは,コメディアンとロールシャッハワーグナーニーチェの関係を見たというか,前期ロマン派から後期ロマン派に至る倫理的価値転換を連想したからだ。どこまでも純粋なロールシャッハは,妥協を許さず自身の正義を追求しつづけた。そのような存在だったからこそ,あのような結末を迎えたのであって,その事態は避けられなかったのだと思う。一方でコメディアンは,ドクター・マンハッタンが言うところの「熱力学的奇跡」に対して常に開かれた存在だった。そのことを端的に象徴しているのが,作中の「熱力学的奇跡」において彼自身がキーパーソンとなっていることだろう。このように世界の根源的偶然性を道化的に体現したコメディアンがアメリカ現代史の要所に顔を出していた…という冒頭の秀逸な演出は,右翼版『フォレスト・ガンプ』だと言えるのかもしれない。
ノーカントリー スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

ノーカントリー スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

暴力と静寂の対比がとても美しい。そこかしこに不条理な死が遍在していて,その体現として無慈悲な殺人鬼アントン・シガー(ハビエル・バルデム)が登場する。空気式の屠殺銃とサイレンサー付きのショットガンを引っ提げて,出会った人々を次々に殺していくのだ。断トツにゾクゾクしたのは,主人公が潜伏しているモーテルにシガーが現れたところからの一連の流れ。歩いてくるシガーの膝下だけが大写しになって,ボンベの底とサイレンサー,足音を殺すためだろう靴下だけ(!)の足下を見せられるのだ。普通の白い靴下なのが言い知れない恐怖を誘う。
このシガーという登場人物が物凄いのは,登場人物でありながら,物語に組み込まれることを否定しているところだ。シガーは,テッド・チャンが『地獄とは神の不在なり』で現代に写像した旧約聖書的世界観をそのまま生きている。荒涼とした大地に降り立って,無慈悲に,不条理に,まるで天災のように,人々の理解が及ばない彼自身のルールに従って,殺人していく。
そしてその対比として登場するのが,ストーリーテラーとしての地位を与えられながら,決して物語に手が届かないところにいる保安官(トミー・リー・ジョーンズ)なのだ。彼はシガーにも主人公モス(ジョシュ・ブローリン)にも追い付けず,モスは唐突に物語に乱入してきた別組織に呆気なく殺され,シガーは自動車事故で重傷を負いながらも逃げ延びる。そもそもモスが追われることになったのも「偶然」見つけたマフィアの大金に手を付けてしまったからで,物語全体を偶発性が支配している。つまりこの物語とは,物語から逃げ延びる男と,物語に追い付けない男の狭間で,物語に翻弄される男の物語なのだ。ここまでくると神学的,いや形而上学的な解釈すらできる作品だと言える。
余談というか何というか,モスが職業を名乗るところで"retired"と言うのだけれど,何を勘違いしたのか「あー,折からの不況でクビになった人なのか」と思い込んでしまい*1,その直後に"Were you in Nam?"という質問が出るまで,彼がベトナム帰還兵で,つまり退役軍人(retired)だということに気付かなかった。ここに至って,彼が銃器の扱いに慣れていたり,所々の振る舞いが素人離れしていたり,わざわざ危険を冒して抗争現場に戻ったり*2する理由がスッキリ理解できたのだった。テキサスの男は皆あんな感じなのだと誤解するところだったよ。自分の感受性の低さを猛省するとともに,もっとアメリカについて知りたいと思った。
グラン・トリノ [DVD]

グラン・トリノ [DVD]

クリント・イーストウッドの映画は,素晴らしいものになるほど目を背けたくなるような痛々しさが同居している。『許されざる者』に始まって,『ミスティック・リバー』,『ミリオンダラー・ベイビー』,最近だと『チェンジリング』。世界の不条理というか根源的偶然性を,世界の側ではなく,あくまで個人の側に引きつけて描写し,それを観客に突きつける。だからどうしようもないことを「どうしようもない」と手放しで諦観することも許されず,ただ痛みに耐えながら画面を見つめることになる。
主人公は朝鮮戦争の帰還兵で,フォードの自動車工だったポーランドアメリカ人。自慢のグラン・トリノを盗みに来たモン族の若者タオ(!)を,ある出来事をきっかけに一人前の男として鍛え始めるのだけれど…。戦争経験者が次世代の若者を成長させる,というプロットは『ハートブレイク・リッジ』を踏襲している。
この「ポーランド系」であることが物語の重要なところだろう。彼らはどちらかというと後発移民であって,人種的にも宗教(カトリック)的にもマジョリティではない。そうしたポーランド系であるところの主人公コワルスキーが,DIY的な古き良き保守主義者として「アメリカ的なもの」を受け継ごうとすることに深い意味がある。彼の友人もまた,アイルランド系やイタリア系という同様の人種的・宗教的境遇にいる人間ばかりだ。そして彼が継承者として選ぶのが,モン族の若者なのだ。これは「後発移民(後発先進国と言い換えても良い)ほどイデオロジカルなものに理想を抱く」という逆説を上手に表現していて,かつ「アメリカ的なもの」がそうした次々に流入してくる亜本流・非本流の人たちの手によって少しずつ変性しながら伝承されていくものだ(べきだ)というイーストウッド的な国家観が反映されているのだと言える。その変性過程を見せたのが,コワルスキーがモン族の家庭と交流を持ち始めるところ。これはつまり疑似家族としての表現であって,それが機能として等価なら家族のあり方がそのように変性していっても良いじゃないか,という主張だろう。ただ,その変性によって失われるものもある。これは厳然とした事実なのだ。
そこで,タオ。見入っていると唐突に自分の名前が呼ばれるので,そのたびに過剰反応してしまうのだ。そんなわけで妙に感情移入してしまったせいもあって,タオがグラン・トリノを走らせる場面(これがまた全然似合ってなくて,ガキが大人のシャツを着ているみたいなのだ)に続いてエンドロールが流れ,イーストウッド本人に引き続いてジェイミー・カラムの歌声が聞こえてきてから,しばらく涙が止まらなかった。だってそりゃタオは屋根の修理も芝刈りもできるようになったかもしれないけれど,きっとグラン・トリノを作ることはできない。ハンドルを握ってアクセルを踏めばグラン・トリノは動き出すけれど,たぶんグラン・トリノを治すことはできない。だから結局,コワルスキーは自分の伝えたかったことを全部伝えられないまま,逝ってしまったのだ。でも仕方ないよ,世の流れってそういうもんだよ,という優しさがボーカルに溢れていて,"Your world is nothing more than all the tiny things you've left behind..."と舌っ足らずで温かい低音が響き渡って,泣かずにはいられなかった。
ミスト [DVD]

ミスト [DVD]

スティーブン・キング原作を映画化して『ショーシャンクの空に』『グリーンマイル』という二大傑作を作り上げたフランク・ダラボンが,これまたスティーブン・キング原作の王道とも言うべき怪獣ホラーを映画化したのが,『ミスト』。小,中,大(それに終盤の絶望的な特大)とバランス良く怪獣が準備されていて,クモみたいだったりバッタみたいだったり翼竜みたいだったり軟体動物みたいだったり,毒を持つわ酸を出すわ糸を吐くわ,人間を苗床にして繁殖するわ(お腹がパーンと弾けて赤ちゃんがわらわら出てくる),もう何というか怪獣ホラーの直球ど真ん中すぎて感動した。キモくてグロくて生理的に受け付けない感じが最高!
もちろん,この作品の主題は怪獣との対決ではない。怪獣に囲まれた人間の物語なのだ。スーパーマーケットが霧に包まれ,得体の知れない怪獣の襲来に怯える中で徐々に理性と秩序が失われ,福音派のおばちゃんが原理主義的な女教祖様として人々を扇動し始め…という展開。この流れを現代アメリカ社会の縮図として議論することはいくらでもできるだろう。まあ,いわゆるキリスト教根本主義者といっても決して一枚岩ではないわけで,その中でも聖書無謬論,ヨハネの黙示録に基づく前千年王国説,そして反科学という最も分かりやすいところを寄せ集めているところを考慮しても,あまり厳密な対応関係には固執せず,寓話的な意味以上の扱いはしない方が良いのかもしれないとは思った。それでも語ろうとしてしまうところに,この作品の共時的な魅力があるのだろうけれど。
それにしても,マーシャ・ゲイ・ハーデン。『ミスティック・リバー』のセレステといい,この人は「猜疑心に駆られた視野の狭い中年女性」の演技が本当にハマッている。自意識過剰な語り口,身振り手振り,全てが勘に障るのだ。きっと彼女の一挙手一投足に腹を立て,その無様な最期に溜飲を下げた人は多いに違いない。多分に漏れず自分もそうだったのだけれど,それこそが物語の罠で,あの場面を頂点として彼女と取り巻きの即席終末論者たちに対する反感をネタに散々煽っておいて,主人公たちに感情移入させることで,結末の絶望感を一層深いものにしているのだ。
そして,その結末。観客が最も感情移入している面々を一台の自動車に詰め込んで出発させ,全部ぶっ壊すという最狂・最悪の演出だ。スーパーマーケットに存在した多様な対立軸を持つ多様な集団から,新旧の合理主義者を選び出して疑似家族に仕立て上げ,ミニマルなアメリカ的理想像を作り上げたところに思考停止と絶望をもたらす…ここに至って,観客は物語に沿って自分たちが忌避し続けてきた終末論的選民思想を,自分たち自身が振りかざしていたことに気付かされるのだ。「こいつらに助かって欲しかったんだろ,ばーかばーか」という制作者(というかこの結末を原作に追加した監督)の悪意をひしひしと感じる。しかも彼らの悪意(褒めています)は隅々まで行き届いていて,つまり彼らの最期は悪しきパターナリズムの発露に他ならないのだけれど,その行為の寸前に最愛の息子を目覚めさせるという,これまた救いようのないカットを見せてくれるのだ。こんなに後味の悪い映画はなかなか見られるものではない。ホット・ファズ』の予習に,同じくエドガー・ライト監督とサイモン・ペグ主演の『ショーン・オブ・ザ・デッド』を見た。タイトルから明らかなように,『ドーン・オブ・ザ・デッド』のパロディだ。しかも単なるパロディじゃなくて,ロメロのゾンビシリーズ(とそのリメイク)に対する愛情と敬意があり,数々のパロディ要素を見事に昇華させているのだ。そして笑えるところは観客の腹筋を破壊しかねないくらい面白く,かつゾンビという主題の本質も見事に捉えている,とてもバランスの良い構成になっていて,監督の並々ならぬ情熱と才能を感じる。
主人公は三十路直前のダメ男で,だらしなくあくびするところなんかゾンビにソックリだ(そしてゾンビの物真似も上手)。前半は街中に被害が広がっていく様子と主人公のだらしない生活を絶妙な配置で描写し,後半になって母親と元カノのために奮起するところから一気にテンポが上がる。行きつけのパブにみんなで籠城したところからは,もう一瞬たりとも目が離せない。Queenの"Don't Stop Me Now"に合わせてゾンビをボッコボコにする場面では笑いすぎて窒息したし,その直後に母親と対峙する場面では「自分の身を守るために身近な人を手にかけられるか」という,ゾンビ映画が繰り返し提示し続けてきた主題について考えさせられる。そして死亡フラグがビンビンの脇役がゾンビの群衆にぶっ殺される場面をたっぷり楽しんで,衝撃の結末へ。
この結末は,『死霊のえじき』から『ランド…』『ダイアリー…』を経由して『...…』でロメロが表現しようとしている「ゾンビとの共存」という問題に対して,エドガー・ライトが先回りして,しかも彼なりの優しさをもって,解答を叩き出してしまったと言っても過言ではないと思う。Queenの使われ方としては,そりゃもちろん"Don't..."も最高なのだけれど,エンディングの"You're My Best Friend"がグッとくるのだ。
あと,個人的にツボだったのは,ビル・ナイ(『ラブ・アクチュアリー』のビリー)のゾンビ姿がハマり過ぎていたこと。『アンダーワールド』のビクターみたいで…どこか違う。ドラキュラ繋がりで,クリストファー・リーのゾンビ姿も見てみたいなあ。そして『ホット・ファズ』。『ショーン…』とは対照的に,その能力を疎ましがられて左遷されちゃうくらい優秀な警察官,というのがサイモン・ペグ演じる主人公エンジェル。数十年間事件とは無縁の牧歌的な田舎町サンドフォードに飛ばされちゃって,そこでも頑張りすぎて浮いちゃうのだけれど,実はこの町にはとんでもない秘密があって…。
この映画は,端的に言って,凄い。『ショーン…』よりさらに高密度になったパロディとオマージュとリスペクトの連続で,エドガー・ライトの映画に対する愛情と情熱とその他何だかよく分からない熱さが鬱屈した男子心を揺さぶって止まないのだ。特に終盤のメチャクチャな銃撃戦は最高で,エンジェルからショットガンを渡されたダニーが片手でスライドアクション決めて"That's what I'm talking about"って言うところ(まさに『バッド・ボーイズ』のノリ)とか,警察署長がシャンデリアを撃ち落としてスローモーションになるところ(これ絶対ジョン・ウーのパロディだと思うんだけど,どの作品なのか分からない…『フェイス/オフ』かなあ)とか,4代目ジェームズ・ボンドであるところのティモシー・ダルトンにカーチェイスしながら助手席から身を乗り出して発砲させる(何という贅沢!)とか,わざわざ中盤で『ハートブルー』のキアヌ・リーブスを見せておいてダニーに全く同じことをやらせるとか,お腹いっぱいにも程がある。きっと自分が気付いていない元ネタがまだまだたくさん眠っているのだろう。
そしてやっぱりイギリスだからパブが出てくる。『ショーン…』と『ホット・ファズ』のせいでどうしようもなくビールが飲みたくなって,今週だけでギネスにバスにキルケニーにスピットファイヤを10パイントほどいただいてしまったよ。歯が痛くて何も噛めないならビールでカロリー摂取すればいいじゃない!
リベリオン -反逆者- [DVD]

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ダークナイト』の予習にクリスチャン・ベールの主演作を何か見直そうと思い,これを選んだ。『アメリカン・サイコ』でも『マシニスト』でも,もちろん『バットマン・ビギンズ』でも良かったのだけれど,或いは未見の『プレステージ』でも良かったのだけれど,たまたま三男とガンアクションの話になって,「ガン=カタ」を知らないというので,こりゃ見せてやらねばと思ったのだ。
いやあ,何度見てもかっこいいものはかっこいいものだ。個人的に一番の発見だったのは,終盤で素晴らしい切断死を見せてくれるブラント(『アリー my love』シーズン4のジャクソン)の顔面が床に落ちているのに気付いたことだ。今まで何十回と見たシーンなのに,全然分からなかった…。
ダークナイト 特別版 [DVD]

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そして『ダークナイト』。クリスチャン・ベールマイケル・ケインモーガン・フリーマンゲイリー・オールドマンアーロン・エッカートも良いのだけれど,やっぱりヒース・レジャーが凄かった。いや,ベールは霞んでたかな。とにかくジョーカーの勝ちだ。
ここまで書いてきて考えざるを得ないのが,シガーとジョーカーという二大悪役について。彼らの差異を一言で表現すると,シガーが「脱」社会的存在であるのに対して,ジョーカーは「反」社会的存在であると言えるのではないだろうか。『ノーカントリー』のところでも触れたように,シガーは物語を拒否する存在だ。一方のジョーカーは,むしろ積極的に物語に組み込まれ,物語を編み出そうとする。絶えず饒舌にふるまい,バットマンに対して「俺とお前は表裏一体だ」という物語的構図を投げかけるのだ。そして彼が目指すのが「不条理」(善悪の超越)ではなく「混沌」(善悪の崩壊)であるところも,彼が善悪二元論に依拠した「反」社会的存在であることを示している。
自分が仕掛けた爆破に対しても,二人は対照的な反応を示す。シガーは自分で点火した自動車が背後で爆発しても,瞬きすらしない(ハビエル・バルデムの演技力は圧倒的だと言う他ない)。一方でジョーカーは,爆破する病院からヒョコヒョコ出てきて(ちょっとした段差を降りるのにピョンと飛ぶのが可愛い),仕掛けた爆弾が作動しきってないことに戯けてみせ,起爆装置をカチャカチャいじっているうちに変なタイミングで爆発が起こったことに,まさしく道化的に,ちゃんと驚いているのだ。
またシガーは,(映画の設定では)ジョーカーに生み出された悪役であるトゥーフェイスアーロン・エッカート)とも異なっている。彼は自身の行動をコイントスで決めるが,ルールそのもの,つまりコイントスをするというルールは遵守する。これは善悪の判断基準を確率論に仮託しただけであって,彼もまた二元論の階層を抜け出していない「反」社会的存在だ。ところがシガーは,気まぐれにコイントスでチャンスを与え,奪う。つまりそもそもコインが出てくるルールが見えない。そういう意味でも,彼は二元論的価値観を超越した「脱」社会的存在だと言えるだろう。要するに,ジョーカーが人の形をした悪魔だとしたら,シガーは人の形をした天災で,それは善と悪,神様と悪魔という二元論を超越した存在なのだ。
小難しい考察はここまでにして,やっぱりジョーカーはかっこよかった。バットマンバットポッドを駆って正面から突っ込んでくるところに,M76をぶっ放して(バットマンに対してではなく,自分とバットマンを遮る自動車に対して!)"Come on, come on, I want you to do it, I want you to do it, come on, hit me, come on, hit me, come on, hit me! Hit me!"と絶叫する場面は最高にゾクゾクした。道化的なヘラヘラ声から自爆的な暴力性が剥き出しになる瞬間だ。
クローバーフィールド/HAKAISHA スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

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最後に『クローバーフィールド』。マンハッタンに突如何者かが襲来し,そこから逃げ惑う人々を同じく一般市民が手持ちのデジタルビデオカメラで撮影した,という設定。散々飲んだくれてから深夜に見始めたので,予想通り画面酔いしてしまった。映画というかアトラクションとしては大きなスクリーンに投影するのが正しいのだろうけれど,そもそも上述のような過程で撮影されたものがセントラルパーク「だった場所」で発見された…という物語内の経緯を踏んでいるので,その世界観に没入したいのなら,あたかもその生データを再生しているつもりで,PCなりテレビなりで鑑賞するのも楽しみ方の一つなんじゃないかと思った。まあ,バッチリ気持ち悪くなったけどね。
この作品は,ある意味で『ミスト』以上に観客を突き放している。登場人物たちにはあまり感情移入できないし,"HAKAISHA"と名付けられた襲来者の正体も最後まで描写されない。しかも画面が揺れに揺れるので,それなりに強い意志が無ければ完走できない作品なのだ。それでも,これは一見の価値がある。
この物語が,日本の怪獣映画に対するオマージュをたくさん含んでいることは明らかだ。そもそも冒頭のパーティーは主人公が日本に栄転するお祝いだし,架空の日本企業がたくさん出てくるのだ。そして何より,エンディングテーマ(これが唯一の劇中音楽だ)は伊福部昭のそれにしか聞こえない*3。つまり,ゴジラだ。
ゴジラ』が太平洋戦争末期における空爆と原爆,そして直接的には第五福竜丸事件を契機として誕生したように,『クローバーフィールド』もまた,9.11に始まるテロとの戦い,そしてイラク戦争という現代アメリカ情勢とは切っても切り離せないものだ。これはたとえ制作側が明確に意図していなかったとしても,このような作品を生み出しうる文化的土壌が形成されたことを示している。ベトナム戦争終結してから『地獄の黙示録』が公開されるまで4年,『ランボー』が公開されるまで7年。『ノーカントリー』『ミスト』『クローバーフィールド』など,世界の根源的偶然性がもたらす不条理で無慈悲な物語に仮託して,2007年から2008年のアメリカは同時多発テロを娯楽として消費する段階に達していたのだ。自分が必死に実験していた頃,海の向こう側ではこんな凄いことが起こっていたなんて。

まとめ

アメリカというところは本当に面白い。政治,宗教,社会,産業,地域,自然,知らないことが多すぎる。テキサスには,メインには,ミシガンには,どんな人々が暮らしているのか。イギリスも分からないことだらけだ。よく分かったのは,街にゾンビが溢れた終末論的世界では,アメリカ人はスーパーマーケットに籠もるけれど,イギリス人はパブを目指すということだ。日本なら…マンガ喫茶だろうか?ゲームセンターだろうか?カラオケボックスだろうか?とにかく,世界のことがもっと知りたい。世界のことを知れば映画が,音楽が,文学が分かるし,良い映画,良い音楽,良い文学に触れれば世界のことが分かるのだ。ああ,実験なんかしてる場合じゃないよ。

*1:物語の舞台は1980年なので,二重に勘違いしている

*2:主人公が瀕死のマフィアに"Agua"(水)と言われ,彼のことが見捨てられなくて深夜に水を持って戻る…だからバレてしまう…のだけれど,これも彼がベトナム帰還兵であることを考えると,とても自然な行為だと思える

*3:というわけで,今は「シンフォニア・タプカーラ」を聴きながら書いている